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創業からこれまでのあゆみ

OUR JOURNEY SINCE 1969

創業からこれまでのあゆみ

50年も続く心石工芸の歴史は、どのように始まったのでしょうか。高い技術力はどのように磨かれて、常に新しいことに挑戦する姿勢はどのようにして育まれたのでしょうか。久しぶりに顔を合わせた創業当時の職人たちは、とても賑やかにそれぞれの思い出を話してくれました。

昭和44年、静かに始動した心石工芸

7人兄弟の長男だった心石会長は、中学校を卒業した後、兄弟を養うため働くことを決意しました。いくつかの職を経て、東深津町にある鐘尾木工さんで仕事に励んでいたころ、「これから応接セットが売れる」と、ある業者が話しているのを耳にしました。これが、ソファの世界に足を踏み入れるきっかけになった言葉でした。その後、独学でソファの作り方を学び、昭和44年1月に個人企業として独立を果たしました。

手探りの経営

心石工芸の最初の工場は、山の中腹の心石会長宅に併設されていました。ワンボックスカーがやっと通るような細い道を、4tトラックが往復。同業他社の職人さんにも来てもらっていました。最初から職人が揃っていたわけではなく、会長の両親にも作業を手伝ってもらいます。紹介を経て、社員さんは少しずつ増えていきました。宮田さんはがっしりとした体格で、木枠を作る作業を担当し、弘子さんは手先が器用なので裁断・縫製を担当。島田さんは家計簿しか触ったことなかったけど、経理など会長のサポート業務を担当していました。何もかもが手探り状態で、心石工芸は静かに始動しました。

ソファをトラックに積んで営業

始めの頃はカタログが無く、会長自らトラックにソファを積んで、家具店を営業して周る日々でした。「だめじゃ、今日は売れんかった。」と悔しそうに帰ってくる日もしばしば。交渉のテーブルについても、家具店から値切られることが多かったといいます。しかし、会長には辛抱強く家具店を周る理由がありました。一つは売上を作るため、もう一つは情報収集するため。売れ筋は何か、流行は何か、役立つ情報は一つも漏らさないように聞き入っていました。研究し、多くの試作を作ることで、心石工芸は成長していくことになります。

欧州のソファを輸入して分解・研究

販路を拡大する中で、横浜の問屋を営むタニフジさんとの取引が始まります。ヨーロッパの展示会を案内してくれたり、商売のやり方を教えてくれるなど、心石会長にとって先生のような存在でした。海外の一流ブランドのソファも数多く取り扱っており、研究材料には事欠かなかったそう。会長は新しいテクノロジーへの投資にも積極的で、トラックよりも高額なミシンを購入することもありました。今では笑い話ですが、PC操作に慣れていない職人が空中でマウスをくるくる回すなど、トンチンカンな使い方をすることもあったそうです。

徹底した品質と効率性、新しいことを試す姿勢

私たちが追求していたのは品質と効率性。分解しないと見えないパーツの一つ一つまで綺麗に仕上げたいと思う一方、できるだけ速く効率的にソファをつくることが求められました。職人全員が高い意識を持つことで、技術力と生産性が磨かれていきました。応接セットが流行、売れていた時代でも、進歩をしない会社は倒産していきましたが、心石会長は胡座をかかず、取引先や周囲から多くのことを学んでいきます。心石工芸の成長は、常に自分たちで新しいことに挑戦することにありました。

「一人前の職人に」心石会長の従業員たちへの思い

心石会長は裁断から縫製までなんでもこなせる人でした。「ミシンの音を聞いただけで上手い下手がわかる。」とよく言っていました。その度にドキリとしている職人さんも多かったのではないでしょうか。
厳しい顔を見せることが多かった心石会長ですが、「従業員を一人前の職人にするのが、自分の務め」が口癖で、人情に厚く面倒見のいい人でした。あなたたちがいてくれたから、と従業員に感謝し労いの言葉をかけてくれることも多かったです。どこかあたたかくて、居心地の良い職場は、今でも懐かしい思い出として残っています。

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